シアトルタコマのおばちゃんブログ

アメリカ在住30年以上、現在シアトルタコマのあたりに住むおばちゃんのブログです。

西郷どん

 

 

薩摩

 

NHK大河ドラマ「西郷どん」が始まりました。

 

www.nhk.or.jp

 

 

シアトルタコマのおばちゃんには関係なさそうですが、

実は私、薩摩、鹿児島市の生まれです。

幼い頃は、鹿児島市の西郷さんの銅像の近くに住んでました。

 

2018年の大河ドラマが、西郷隆盛の話だと知って、

1990年の「翔ぶが如く」のようなものかなと思ってましたが、

今年の始めに「西郷どん」の関連番組を見て、興味が沸いてきました。

 

 (あなたが主役50ボイス−西郷どんボイス・もうすぐ「西郷どん」・食が偉人を作った!西郷どんの正月料理・ふるカフェ系 ハルさんの休日、などなど) 

 

西郷どん |NHK_PR|NHKオンライン

西郷どん関連番組

 

アメリカでも日本の番組は見れます。

 

 

なぜアメリカから「西郷どん」?

 

私が故郷の鹿児島を離れたのは40年前です。

  

かなり前ですね。

 

そんな私が「半世紀も前のことを書けるの?」と言われそうですが、

「アメリカにいるからこそ書ける」のです。

 

そう言えるのは、

私がアメリカで、たくさんの日本人女性たちに会ってきたからです。

 

私は、それぞれの中に残っている昔の日本を感じたのです。

 

その方々を、私なりに分けてみました。

 

1. 日系アメリカ人(戦前の移住者、もしくはその子孫)

2. 戦争花嫁(第二次世界大戦後)

3. アメリカ人との国際結婚、移住者(現代)

 

ちなみに私は、アメリカに住んで30年ほどですので、2と3の間ぐらいです。

 

私も「日本人としてのあなたは、あなたが日本を離れた時のまま」

と言われました。

 

それはどの国の人にも言えるのかもしれません。

故国を離れ、その人がどのようになっていくのか、とても興味深いです。

 

2017年のノーベル文学賞を受賞されたカズオ・イシグロさんも、

幼い頃に日本を離れられたのに、日本の影響を受けておられるそうです。

 

私も同じと言うには、あまりにもおこがましいですが、

この「西郷どん」から、

私が日本にいたころの鹿児島について考えてみようと思います。

 

 

私の中の日本

 

私が日本を離れたのは、バブル景気の前でした。

 

ですから私は、日本のバブルを知りません。

その後の日本も経験していません。(アメリカ側では経験したけど)

  

もちろん今は、ネットやTVのニュースで日本の情報を得られますし、

「アメリカに住んでいるのに日本の情報が早いね」とも言われます。

年に二度、日本へ一時帰国するので、日本にも接しています。

 

今はグローバル化が進み、

私は日本の皆様から「米国風になった」と言われてしまいます。

 

ところが私の方こそ、今の日本人に「これが日本風?」と感じることがあります。

 私が覚えている日本は、今とは違うように感じます。

 

私が覚えているのは「プロジェクトX」のような高度成長期で、

それも一つの日本でしょう。

 

母に「あなたは最後の日本人かも」と言われたことがありましたが、

それは私がアメリカに住む日本人女性たちに感じたように、

私の中に残っている古い日本を感じたのでしょう。

 

日本も変化しているのであり、 

良いとか悪いとかではなく、

その時代の日本があるのだと思います。 

 

 

「(西郷は)こげな人じゃなか!」

 

そんな中で始まった大河ドラマ「西郷どん」。

初っ端から、妻・糸さんの銅像落成式の否定に、視聴者はびっくりされたでしょう。

 

私も「マジ?」と思いましたが、

良く考えてみると、糸さんの気持ちも分かります。

 

実は私も、小学校の教科書で、初めて上野の西郷さんの写真を見て、

「えっ、浴衣姿?」と戸惑いました。

 

今はお洒落着となった浴衣ですが、

私が子供の頃は、寝巻き、

今で言うバスローブやパジャマのようなものでした。

 

当時、我が家では、父が仕事から戻ってくると、

父が部屋着の着物(浴衣ではない)に着替えるのを、母が介助します。

そして父は、風呂に入るか夕食を食べ、寝る前に浴衣に着替えて寝ます。

 

ですから、浴衣を着た自分の夫が公の銅像になるとしたら・・・

 

私は軍装の西郷像に馴染みがありましたし、

当時の落成式に参加しても、糸さんと同じように否定したかもしれません。

実際の西郷さんは、どのような人だったのでしょうね。

 

ところで私が子供の頃、母は、西郷さんの姪に生花を習っていました。

 

私も母に、何度か西郷屋敷」と言われていた武屋敷に連れられて行かれました。

そこでお茶やお菓子を頂いたのですが、

検索してみてびっくり、今でも残ってたんですね。

 

そこでの一番の思い出は、私が一人で庭を散策していた昼下がり。

 空にまっすぐ伸びる大きな木に蔓が巻きついているのを見て、

「このままでは木が死んでしまう」と心配し、

絡まった蔓を剥がしはじめます。

 

ところが子供の手に負えるものではなく、いくつもの蔓が紐のように垂れ下がり、

美しかった木は、哀れな格好になってしまいます。

今更、戻すこともできません・・・

 

後で私は、母に叱られたのですが、

当時は子供が親に言い訳することなど許されず、黙っているだけでした。

 

こんな時、西郷さんなら何と言われたのでしょうね。

  

妙円寺詣り

 

「西郷どん」第一話では、妙円寺詣りの話がありました。

 

私も、小学校五年生の時に初めて参加しました。

 

十歳かそこいらの子供たちは、クラスごとに列をなし、

歌を歌いながら片道20キロを歩き、

途中で雨が降り、

声も列もバラバラになります。

それでもやり遂げ、帰りは蒸気機関車に乗って市内へ戻りました。

 

戻った私は、母にその日のことを興奮しながら伝えたそうです。(母談)

 

ですから「西郷どん」の時代に、少女が参加できたかどうかは別として、

女の子の糸が、男の子たちに勝つ可能性はあったと思います。

 

「八重の桜」の八重も力持ちでしたし、

弟との喧嘩で鍛えられていた私も、男の子に勝ったりしました。

私なんかよりずっと強い女の子たちもいました。

 

それなのに、腕力が強く頭が良かったとしても、平等ではなく、

女と言うだけで見下げられてた女性たちはたくさんいます。

 

妙円寺で、糸が「男のように…」と言ったシーンがありましたね。

私にも似たような悔しい思いは何度もしています。

 

例えばある日、近所の子供たちが集まって遊んでいると、

私は一人の男の子のお兄ちゃんに呼ばれます。

 

そのお兄ちゃんは、病気のため遊ぶ事ができず、

いつも私たちの賑やかな声を、窓越しに聞いていたようです。

 

お兄ちゃんが、私に何かをくれると言うので、

私が恐る恐る窓に近づくと、お兄ちゃんは私を見てがっかりし、

「なんだ女か」と言って私を追い払ったのです。

(まあ、私にくれる物も、女の子にはいらないものだったでしょうけど)

 

当時はまだ、男尊女卑の薩摩気風が強く残っていました。

ですから、薩摩時代の糸ちゃんの気持ちは推して知るべしです。

私もそんな女の子でした。

 

男性の能力に対抗しているのではありません。(しても大した事はない)

男の子であろうと女の子であろうと、それぞれの能力は違います。

それを生かす場が、偏見に捕らわれないようであって欲しいと願ってます。

 

そうして私は、

「男に生まれたかった」という気持ちから、

「いつか鹿児島を出てやる」に変わり、

ついに日本からも出てしまいました。(笑)

 

もちろん 鹿児島には、たくさんの良い思い出があり、薩摩気風も好きです。

自然はとても美しく、桜島雄大です。

 

 海からそびえ立つ火山、そして霧島の美しい山々などの景観に、

「なんて恵まれているのだろう」と何度も思いました。

 

ですから、このアメリカで、

「西郷どん」を見ながら、

私の中に残っている薩摩をここに書いてみようと思います。

 

じゃあこの辺で、シータック!