シアトルタコマのおばちゃんブログ

アメリカ在住30年以上、現在シアトルタコマのあたりに住むおばちゃんのブログです。

「西郷どん」第4話

赤山靭負切腹

 

pleasure-bit.com

 

大河ドラマの中では、赤山靭負(あかやまゆきえ)は、

西郷さんと親しかったように描かれてますが、

身分が違い過ぎるので、実際の交友は難しかったかもしれません。

 

年齢も、西郷さんより5歳年上です。

 

「先生」と呼ぶにしては年が近いかもしれませんが、

5歳も離れていたら、立派な「先生」です。

 

tvfan.kyodo.co.jp

 

 

私は、鹿児島市に生まれ、

4歳までは、参覲交代で通った西田橋の城寄り、調所広郷邸の近く、

それ以降は、

西田橋を渡り、旧街道沿いの西田町に住んでました。

 

石橋記念公園案内・西田橋

 

今になって思うのですが、私が育った環境は、

幕末そして明治に、ゆかりの深いところだったようです。

 

私は、知らない内に、その時代の精神を教えられていたのかもしれません。

 

 

子供たちへの教育

 

私が子供の頃、近所の子供たちは広場に集まって遊んでました。

 

当時は、他の土地でも同じようなものかもしれません。(会津とか?)

世界の水準からすれば、

江戸時代の一般の子供教育は、素晴らしかったようです。

 

さて、私の子供時代の遊び仲間の年齢は様々で、

小学高学年の子が仕切って、年下の子の面倒を見ていました。

 

貧富の差に関係なくリーダー資質のある子が担います。

 

男の子は、広場で忍者ごっこなどをすることが多かったですが、

すぐ後ろには自然豊かな山があり、広い墓地もあったので、

子供達にとっては、格好の遊び場があったのです。

 

そして防空壕も数多くありました。

 

burakago.seesaa.net

 

子供たちは、防空壕探検が大好きでした。(もちろん親の目を盗んで)

 

年上の子たちが、年下の子たちを中に挟み、守るようにして、

ロウソクの灯だけで暗い中を進みます。

 

ゲジゲジ虫などが、うようよ出てきたり、

 

matome.naver.jp

 

暗いトンネルは曲がっていたり、急に穴が空いていたりして、

PCゲームの実体験のようで、スリル満点でした。

 

そうして上の子たちが中学へ上がる頃になると、代替わりするのです。

 

当時の子供たちにとって、

「西郷どん」での子供社会は、普通のことでした。

 

ですから、最近あるような虐めは無かったように思います。

あったとしても、ドラえもんジャイアンのようなものでしょう。

 

子供たちの社会には、独自の正義があったように思います。

 

それはある意味、薩摩の精神のようだったかもしれません。

 

とはいえ、武家生まれの者のプライドは、戦後になっても高く、

小学生でも「俺は武士の出だ」なんて言ったりしてました。

 

私も「うちもそうよ」なんて言ってたので(バカです)

今にして思えば、

武家の出でない子供たちを、どれだけ傷つけたのかと悔やまれます。

 

驚くことに、1970年代後半でも、

「うちは武士の出ですから」なんて言う若者もいました。

さすがにその時代になると、私も心の中で苦笑するしかありません。

 

とはいえ「西郷どん」を見る時、

そんな薩摩武士のプライドを根底にしてもらえれば、

もっと臨場感を味わえると思います。

 

 

戦争が人生を狂わせていた

 

私の父は、大正時代が終わる年に生まれました。

ですから、第二次世界大戦が終わった時、父は二十歳でした。

 

父が教育を受けたのは、戦争一直線の時代です。

 

父は裁判官になりたかったそうですが、

祖父は実業家で、長男の父は、事業を継ぐように期待されていました。

 

そんな中、父は詩を書きます。

それは父が大好きだった山の詩で、

自然がどんなに美しいものかを語ったものでした。

 

すると先生は、

「こんな詩を書くなんて、軟弱!」と叱ったそうです。

 

私は、父からそれを聞いた時の事を良く覚えています。

 

私はそれを聞いて、八田知紀の庵跡への美しい谷を思い出していました。

あの美しい、光が溢れる中を登っていく不規則なベージュの階段です。

 

その美しい情景が、戦争によってかき乱されるように思えました。

 

戦争が始まり、祖父は、父を大学から中退させ、

師範学校に編入させられます。

先生になれば、兵役免除があるからです。

 

そうして父は、中学の数学の先生になりました。

まだ十代のころです。

 

ですから赤山靭負が若くても、

「先生」だったのはおかしくないと思います。

 

さて戦争が進むと、父は名古屋の軍需工場に行かされます。

 

名古屋の空爆は激しさを増し、同郷の者たちは脱走を試みます。

同僚の中に、偽の旅行許可書を偽装できる者がいたのです。

脱走は、ひと月の内に、ゆっくりと行われました。

 

私は「誰にも気づかれなかったの?」と聞きます。

すると父は、

「空襲が激しくて、誰が戻ってないか、誰にも分からなかった」

と答えます。

 

そうしてやっと故郷に戻った父でしたが、なんと赤紙が来ていたのです。

祖父は赤紙を受け取ったものの、

息子のいる名古屋へどうやって知らせるのか分からず、困ってました。

 

もちろん祖父や家族は、父が戻ったのを嬉しく思います。

ですが父は、また戦争へと駆り出されることになってしまったのです。

 

ところが戦争は訓練中に終わってしまいました。

父は、熊本の立田山で、玉音放送を聞いたそうです。

(私も熊本に住んでいたので、立田山を懐かしく思います)

 

父は、戦争時代の教育の歪みを、長い間引きずっていたようです。

そんな父に、私は訳も分からず反発してました。

 

嬉しかったのは、私の親友が、父に娘のように接してくれたことです。

 

彼女は、父と思い出のある薩摩の地、そして福岡など、

多くの場所や山々に、一緒に行ってくれました。

 

彼女だったから、父は心を開いたのだと思います。

 

そうして父は私とも心を合わせるようになり、

まるで私を恋人のように思ってくれるようになりました。

 

 

戦争の歪み

 

私が父の戦争教育の歪みを知ったのは、

同世代のアメリカ人と知り合いになってからです。

 

その方は私の住んでいる家の大家さんで、

私は、その方の両親が住んでいた家を借りていました。

 

また私は、以前から、母の親しかった従兄のことを聞いていました。

 

父、母の従兄、そして同世代のアメリカ人男性、

なんと彼らには、

共通するものがあったのです。

 

私は、日本の若者が受けていた、そしてアメリカでもあった、

その時代の教育の歪みに愕然としました。

 

それは、

何というか、

父が自然を美しいと思った感情を、打ち消すようなものだったのです。

 

そうして世界は、若者たちは、

戦争へと駆り立てられていったのでしょう。

 

太平洋戦争が勃発する頃、

「もし日本が、明治維新の頃のようだったら勝てるかどうか分からない。

だが、今の日本だったら勝てる」

と言ったアメリカ人がいたそうです。

 

当時の日本は、

「西郷どん」の時代のようでは無かったようです。

 

今は、

太平洋戦争時代の人たちは、ほどんどいなくなってしまいました。

 

ですから、父が経験した歪みについて知るのは難しいでしょう。

 

とはいえ今は、別の歪みがあります。

 

社会の歪み、偏見、虐め、そして自殺などです。

 

 

「西郷どん」

 

まあ、こう言っては何ですが、

 

「西郷どん」の大河ドラマから、社会の難しさ、

 

それでも強く生きていく人々を思えば、

 

少なくとも、過去の、いなくなってしまった人々の思いを、

 

少しでも感じ取ってもらえるのかな、

 

とおばちゃんは思ってます。

 

では、シータック!