シアトルタコマのおばちゃんブログ

アメリカ在住30年以上、現在シアトルタコマのあたりに住むおばちゃんのブログです。

西郷どん第2話

視聴率

 

「西郷どん」2話の B S プレミアムの視聴率が異例の高さだったらしいです。

 

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鈴木亮平さんの西郷さん、熱くていいですねー。

これから西郷さんがどのように描かれるのか楽しみです。

 

ところで今回、私が「おおー!」と思ったのは、

 

沢村一樹さんが演じる、赤山靱負(あかやまゆきえ)が、

 

nuevavista0.xyz

 

 

島津斉彬が薩摩を出発する時、(ドラマが始まって37分40秒ほど)

 

「みっかんざかまで おともいたしもす」

 

と言ったシーンです。

 

2話のあらすじは、下記のブログに載せられてます。

 

i-revue.com

 

とはいえ、

その記事では「みっかんざか」の件(くだり)はありません。

 

てか、

「今では、鹿児島の人も、あまり知らないのでは?」と思ったりします。

 

 

みっかんざか

 

「水上坂」と書き、「みっかんざか」と発音します。

 

実は私も、ドラマでその名を聞くまで、すっかり忘れてました。

 

水上坂は、参覲交代の時、

最初もしくは最後に、桜島が見える急な坂です。

 

blogs.yahoo.co.jp

 

私は、その水上坂のふもとにある、西田小学校に通ってました。

 4歳の時に、西田町に引っ越したのです。

 

薩摩街道西目筋は、西田町を通ります。

引っ越した当時、街道だった西田本通りは、

まだ舗装されてなかったのを覚えてます。(その後すぐに舗装された)

 

それから私は、さみどり幼稚園へ通い、西田小学校に入学します。

 

そして小学校一年の時、初めて水上坂から桃が岡に登りました。

 

当時の子供たちにとって「みっかんざか」は、

「しんどかさか〜」(しんどい坂)の代名詞のようなものでした。

 

そんなことまで思い出し、

大河ドラマで赤山が、斉彬が薩摩を経つ時に言ったセリフ、

「みっかんざか・・・」にジーンときてしまったのです。

 

島津斉彬鶴丸城を出て、赤山がお供した、みっかんざかまでは、

歩いて45分ほどで行ける距離です。

 

ちょうど良い距離ですね。

しかも桜島が最後に見える所とは泣かせます。(ネタバレ・最後です)

 

「西郷どん」を書かれた林真理子さん、

大河ドラマの脚本を書かれた中園ミホさんが、

「みっかんざか」を、どこまでご存知なのは知りません。

 

それでも私は、

ほとんどの人にとって聞き流される場所、

ドラマの隅でしかないこの場所を取り上げてくださり、とても感謝してます。

 

文章を書く方々は、古文書を含め、たくさんのことを調べるそうです。

 

小説、またハリウッド映画などの作品でも、

きちんと調べられ、考えられたものは、感動させられます。

 

私たちが気づかないような細部も、手を抜きません。

 

だから深さが出て、私たちは心を揺さぶられるのですね。

 

 

古文書

 

ところで「調べる」と言うと、こんなことがありました。

 

私の母は、名を知られた小説家と交友があったようで、

我が家にあった古文書を貸して欲しいと言われ、渡したそうです。

 

ところが古文書を渡した直後、

その作家さんは、急に心臓麻痺で亡くなってしまわれました。

古文書も、そのまま戻ってこなかったそうです。

 

その方は、何を書こうとしておられたのでしょう。

 

生きておられたら、

「薩摩」についての何かを書いてくださったかもしれず、

 NHK のドラマになったかもしれません。

 

半世紀以上が過ぎて、

母は、

「あの古文書はどうなったのだろう」と言います。

 

私は、

「うちにあるよりは、誰かのお役に立ってるんじゃない」と答えます。

 

それは歴史的価値のあるものかもしれず、

金銭になったかもしれませんが、

埋もれてしまっているかもしれません。

 

どちらにしても、古文書は大切にしたいものです。

 

母が渡したものも、誰か他の方の手に渡り、

すでに役立っているかもしれません。

 

多くの人に役立つような、

例えば、大河ドラマの「西郷どん」のような、

その様な扱い方をされてたら嬉しいですね。

 

 

桃が岡の思い出

 

さて私は、小学校の課外授業で、

何度も、水上坂から桃が岡に登りました。

 

初めて行った時のことは、今でも良く覚えています。

 

そこには石碑があり、

八田知紀の庵があった跡だと聞き、

「こんな山の中に家があったの?」と驚いたからです。

 

そんな風に驚くほど、当時の桃が岡は、

空と山々しか見えず、

人気のない藪に囲まれた草地の広場だけの場所だったのです。

 

それでも私は、そこへ行くのが大好きでした。

 

もちろん、植物や昆虫を採取をするのは楽しかったですが、

何より、行き帰りの景色を気に入ってました。

 

それは薩摩街道から左に曲がり、切り立った細長い谷にありました。

 

谷底の道は、幅が広く、不規則な階段が、

両壁の間を、ゆるりと蛇行しながら上へと登っていきます。

 

数メートルもの高さのある渓谷のような谷でしたから、

シラス台地のガリー侵食によるものかもしれません。

 

階段も、人が作ったというより、

元々自然にあったものを登りやすく削っただけと言う感じです。

ですから、歩幅の狭い一年生たちでも、ゆるゆると登れます。

 

両壁と階段は、ベージュ色で、

天井は、緑の木々で覆われています。

 

晴れた日には、たくさんの木漏れ日が、

まるでスポットライトのように、優美に、谷底の階段へと降りてきます。

 

その中を、子供たちが長い列を作って登っていくのです。

 

それは、まるでお伽話、

不思議の国にでも誘われるような美しさで、

そして視界が開け、現実に戻ってきたかのように、桃が岡に着くのです。

 

その谷はもうありません。

 

今、桃が岡は、

甲子園にも出場する樟南高校の隣の公園になっているようです。

 

あの石碑も残ってました。

 

www.shonan-h.ac.jp

 

私が子供のころの石碑の周りは、大きな木は少なく、

日が差して、とても明るかったように思います。

 

半世紀も前のことです。

 

 

八田知紀

 

石碑の方は、1799〜1873年の生涯だったそうで、

正に、西郷どんの時代の方でした。

 

江戸末期の歌人で、薩摩藩士として京都藩邸詰め、

維新後には、宮内庁で歌道御用係として奉職されました。

 

号が桃岡だったので、

山城跡に閑居を建てて住まわれた場所は、

後に「桃が岡」と呼ばれるようになったそうです。

 

私が、八田知紀に感激したのは、

初めて桃が岡に登った小学一年生の時です。

 

担任の先生が、

「八田知紀は、弟子たちに『自分を越えていくように』と言われていた」

等々を話してくださいました。

そして弟子たちは、その教えの通り、有名な歌人になられたそうです。

 

私の担任の先生も、とても素晴らしい方だったと聞いています。

 

とはいえ、感激したからといって、そう簡単になれるわけではありません。

今でも私は「そんな人になれるといいな」と思い続けてます。

 

 

小学校

 

西田小学校は、1875年に創設されたそうです。

校訓は「強く、美しく、正しく」でした。

教育にとても熱心で(ラサール中学を目指す子がいたり)

先生方の事も良く覚えています。

 

私も、土曜日の放課後に、校長室で、

他の数人の子たちと、詩を書く特別授業を受けたりしました。

 

母も、PTA やママさんバレーに熱心でした。

PTA に、母親が着物で学校へ行ったりしていた時代です。

(弟は、母が着物で来るのを密かに喜んでました)

 

小学校の裏には、自彊学舎なるものもありました。

 

西南戦争の後、郷中教育を促進するために始められたようで、

弟も在籍していたことがあります。(女の子は入れない)

 

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ということで、

 

私の覚えている「みっかんざか」周辺は、こんな感じでした。

 

西郷さんの時代は、さらに100年も前のことですので、

もっと違ったでしょう。

 

それでも私の頃は、

西郷さんを思わせる風景が、たくさんあったように思います。

 

そんなことを思い出してみました。

 

ではこの辺で、シータック!