シアトルタコマのおばちゃんブログ

アメリカ在住30年以上、現在シアトルタコマのあたりに住むおばちゃんのブログです。

西郷どん 第5話

相撲じゃ!相撲じゃ!

 

今回は、相撲の話だと聞いて、懐かしいなぁと思いました。

私は鹿児島を離れて40年になりますので、今の鹿児島の子供たちは知りませんが、私が子供の頃、特に小学校では、学校で相撲大会がありました。

そこで思い出すのは、クラスの男の子の中村くん(だったと思う)。一見、普通の背丈なのに、まわし姿の彼はちょっぴり筋肉質でカッコよかったです。

 

当時の小学校の男の子は、さらしで作ったと思われる(お母さん方が作ったはず)まわしを着けて土俵に上がってました。うちの母も弟のまわしの締め方で父に聞いたりしていたのを思い出します。

 

さて、まわしを着けた中村くん。勝ち進んでいくのですが、なんと、試合中にまわしが緩んで取れかかったのです。周りで見ていた私たちは(女子生徒たちも)、ハラハラドキドキ。それでも中村くんは怯まず試合に勝って、まわしもキワドイところで解けずにすみました。

 

今回の「西郷どん」では、仙巌園で相撲試合が行われましたね。

実は、この仙巌園に関して、私にはちょっとしたエピソードがあります。

 

 

仙巌園

 

仙巌園は、私が子供の頃から何度も行ったことのある島津家の別邸です。(磯庭園とも呼ばれていた)

 

私が鹿児島を離れる少し前(40年前)ですが、この仙巌園の付近に住む友人が、近くの武家屋敷に寄ると言うので、私もお願いしてお供させてもらうことにしました。

と言いますのも、そこのお嬢様が「私は世が世ならお姫様だったのよ」と言ったそうで、仲間内で(少数ですので一般ではありません)「磯のお姫様」というアダ名が付けられていたのです。

私はその「お姫様」を見てみたいと思いました。

ところが、そのお姫様は、私が以前に会ったことのある人だったのです。

 

それは私が幼稚園に上がった年の春でした。

祖母に連れられその武家屋敷に行った私は、そこのお姉様に近くの海水浴場でボートに乗せてもらいました。

桜島はすぐ目の前にあります。そしてお姉様の手漕ぎのボートは、静かに漕ぎだします。

 

そこは両親が、体の弱かった私の運動のために良く連れてきてくれていた海水浴場でした。夏は人が混雑して、波打ち際は砂が舞い上がり泥水のように濁っていたのに、春の磯の水はとても澄んでいて底が良く見え、私が立っていられないほど深いのに、砂や砂利を手ですくえるのではないかと思えるほど近くに見えます。

この美しい光景は、大人になっても、私の心に残っていました。

 

実は私は、友人とこの武家屋敷の門を通った時に「あれっ?」と思ってました。

そして私は、そこに現れたお嬢さまが私をボートに乗せてくれた方だと分かります。

私は友人の後ろで黙ったまま、何も言わずにそこを去りますが、疑問が残ります。

本当に、あの方は、お姫様だったのでしょうか。

 

それで私は祖母に聞いてみます。すると祖母は、

「あの人はお姫様じゃないわよ」と言うのです。

確かにそれなりの武士のお家の方なのですが、姫と呼ばれるほどではなかったようです。

 

祖母は、私が幼い頃には、ある方の後妻になっていました。

祖母のご主人様は、磯のお姫様の家に仙巌園でのお仕事を世話されていたようです。そして祖母は、時々その家に様子を見に行っていたのだそうです。私はその祖母とそこへ行き、お嬢様にボートに乗せてもらっていたのでした。

 

私の母の話もちょっと笑えます。

母はある日、急に風邪を引いてしまった祖母の代理で、この家へお使いに行かねばなりませんでした。

 

母は気乗りしませんでしたが、仕方ないので着物を着て出かけたそうです。

すると、ちょうどその家には島津家の当主が訪問しておられて、

「お上が、お会いになられます」と言われたそうです。

母は、

「いえ、私は、ただの使いの物ですので、これで失礼いたします」

と早々に戻ってきたそうです。(笑)

 

 

 

祖父

 

私には、母方の祖父は二人いました。

祖母が後妻になった方の祖父は、今でも良く覚えています。

 

母は、よく飯ごうを持ち、幼い私と弟を連れて祖母の住む家へ行ってました。飯ごうは、祖母が作った甘酒を持って帰るためです。祖母は料理が得意でした。(私も幼いころから料理は好きだったので、甘酒作りも手伝ったりしました)

 

薩摩の武家では、女子供は正面玄関から入ることを許されないので、裏の入り口を通って入ります。その入り口には使用人の家があり、使用人のお姉さんが学校から戻っていれば、私たちと遊んでくれました。

屋敷へも裏の入り口から入ります。

 

御主人様の最初の妻は他界し、子供もいなかったので、甥が家を継ぐことになっていました。祖母は、年を取った当主の世話のために後妻になっていたのです。(年齢も20歳以上)

 

裏の入り口は、裏の台所(表とは別の台所)があり、祖母がいつも嬉しそうに私たちを迎えてくれてました。そして、いつものご挨拶が始まります。

 

私と弟は別の部屋に行き、襖の前に座ります。そして襖がすすっと開きます。祖父は、奥の座敷にいて、床の間を背に脇息(肘掛)に寄りかかって座っています。

 

私と弟は、にじり寄りながら祖父の方へ進み、両手を付いて、

「お爺ちゃま、こんにちは」と頭を下げて挨拶します。

 

祖父は嬉しそうに「おお、良く来た」と笑顔で迎えてくれ、それから飴の入った入れ物の蓋を開けて私たちに差し出します。そこには子供が好きとは言えない茶飴が入っていました。

 

私と弟は、一個ずつその茶飴を取り口に入れ、子供にはちょっと苦いのですが、それを隠して口をもごもごします。すると祖母が、

「さっ、子供たちは外に行って遊びなさい」と外へ追い出されます。

 

それを毎回するのですが、その祖父との思い出はとても心に残るものでした。

 

祖父の写真は集成館で見たことがあります。

これが祖母が持っていた同じ写真です。(今持っているので後で載せます)

 

祖母が亡くなった後、荷物の整理をしていたら、祖父の直筆の巻物が出てきました。

それは日露戦争で亡くなられた部下たちの名前が書かれてあり、祖父は死ぬまで毎年その部下たちの供養をしていたそうです。(その巻物は歴史が好きな夫にあげました・夫には読めないけど)

 

私とは血の繋がってない祖父でしたが、もし私が大人になるまで生きていてくださっていたら、多くのお話を聞きたかったです。

そして血が繋がってなくても、いつも優しく私たちを迎えてくださったのをありがたく思っています。

 

 

鹿児島の男尊女卑

 

鹿児島では、私が小さいころはまだ男尊女卑の風習が残っていました。

 

私が子供の頃、父は仕事から戻ってくると部屋着に着替えます。部屋着は着物で、母がその手伝いをします。また、父より先に風呂へ入ることはできませんでした。食事も、晩酌のための酒の肴がいくつもあります。(ですから酒飲みの私も酒の肴は大好きです・笑)

 

うちはまだ良い方で、私の友人たちは、

男と女の洗濯たらい(洗濯機が一般化する前)は別で、男の洗濯物は日当たりの良い表、女の洗濯物は裏の日当たりの悪い所に干していたそうです。我が家では、男性の洗濯ものは上に干して、女のものを男より上に干してはいけませんでした。

 

まあ、昨今の日本では別の意味で男と女の洗濯は別になってますが・・・

 

また1970年代の話ですが、夫は床の間の部屋でたくさんの酒の肴で晩酌や食事をしますが、女子供(そこの家は娘が2人)は台所で食事は別、と東京から嫁いでびっくりしたという奥さんもいました。

 

そんな薩摩の風習は、今では懐かしく思えます。

 

ちなみに、実は薩摩の女性たちは賢かった、と言われたりします。

つまり、プライドの高い男性たちを持ち上げ、その裏で実権を握っていたのは女性たちだった、という話です。

 

さあ、どうだったのでしょう。

 

そんなことを思ったりしながら、この「西郷どん」を楽しんで見てます。

 

では、シータック!